長崎地方裁判所 昭和30年(わ)423号 判決 1959年6月24日
被告人 布沢昌雄
大二・一・五生 食料品商
峰熊雄
大一〇・一一・七生 農業
浜崎鷹男
大八・三・二〇生 会社員
主文
被告人布沢昌雄、同峰熊雄を各懲役三年に処する。
但し、右被告人両名に対し、本裁判確定の日から三年間右各刑の執行を猶予する。
被告人浜崎鷹男は無罪。
理由
(罪となるべき事実)
被告人三名は、いずれも長崎県西彼杵郡香焼村村議会議員であつたが、昭和三〇年八月四日午後一〇時頃、同村馬手浦一七五番地梅原太郎次方二階東側六畳の間において、右梅原及び取違源吉(当時三九才)と会飲中、右取違が酩酊のすえ、右梅原に対し因縁をつけ、被告人峰に対して暴言を吐くので、被告人浜崎が、帰宅するよう取違を促し、立ち上つて窓際の廊下に出たところ、右取違はやにわに同被告人の顔面を殴打し、そのため同被告人は、二階窓から地上に転落した。
この状況を目撃し、被告人布沢、同峰は、極度に憤激し、二階廊下において、こもごも手拳をもつて、右取違の頭、顔面、胸、腹、手、足、肩部等をところ構わず殴打し、ために、取違は、力つきてその場に座り込んでしまつた。
そこで、被告人布沢、同峰は、右取違を外に運れ出そうとして、被告人峰が取違の腕を肩にかけて先に立ち、被告人布沢が後から取違の反対側の腕を持ち、階段を下りようとしたところ、取違が急に手足を動かしたので、被告人布沢の手が離れ、取違の体重が被告人峰にかかつたため、同被告人は取違の腕を離して階段を走り下り、取違は階段から転落した。
ついで直ちに、同被告人らは、取違を前記梅原方店舗前道路に抱え出し、仰向けに寝かせたが、そこにおいて、さらに、被告人布沢は、右取違の腹部あたりを二、三回素足で蹴つた。
右の一連の暴行の結果、被告人布沢、同峰は、右取違に対し、頭部、顔面、頸部、胸部、腹部、背部、左右上肢及び下肢等の表皮剥脱、皮下出血等並びに小腸断裂の傷害を与え、よつて、同人をして、同年八月七日午前一〇時頃、長崎市坂本町長崎大学医学部附属病院調外科において、上敍小腸断裂に基く腹膜炎により死亡するに至らしめたが、その傷害の軽重を知ることができないものである。
(証拠の標目)(略)
(法令の適用)
被告人布沢昌雄、同峰熊雄の判示所為は、刑法第二〇七条、第二〇五条第一項に当るから、その所定刑期範囲内で右被告人両名をいずれも懲役三年に処し、諸般の情状により、右被告人両名に対し同法第二五条第一項を適用して本裁判確定の日から三年間右各刑の執行を猶予し、訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項但書にのつとり全部右被告人両名に負担させないことにする。
(無罪の説明)
本件公訴事実中被告人浜崎鷹男が、梅原太郎次方店舗前において、取違源吉の腹部等を被告人布沢昌雄とこもごも一、二回位素足で足蹴にしたとの部分は、これを認めるに足る証拠が十分でない。
しかし、一応右公訴事実部分にそう証拠もあるから、以下考察する。
一、被告人浜崎の自白調書について。
被告人浜崎は、逮捕の翌日たる昭和三〇年八月九日の司法警察員の取調においては、取違を蹴つたことを否認しているが、同年同月一八日の司法警察員の取調に対して右の事実を自白するに至つた。同被告人は、公判廷においては、終始右の事実を否認し、警察での自白は早く釈放してもらいたいために迎合的な供述をしたからであると供述する。しかしながら、同被告人の捜査官に対する供述の任意性を疑わしめるような事情は、これをうかがうことができない。よつて以下同被告人の自白調書の信憑力について考察する。
同被告人の第一回自白調書たる司法警察員に対する昭和三〇年八月一八日付供述調書によると、同被告人は、梅原方店舗前の道路に転んでいた取違の肩から頭の附近を素足で一回蹴つた、と述べ、また、検察官に対する同年同月二四日付供述調書によると、梅原方店舗前道路に寝ていた取違の腹のあたりか上半身を素足で一回力いつぱい蹴つた旨供述している。しかし、検察官に対する同年同月三〇日付供述調書には、同被告人が、取違を蹴つたのは、詳しくいえば、梅原方前の「いけす」の上に取違が寝ていたときで取違方に連れていこうとしていたときであつた、とあつて、この供述と前二者の供述とは蹴つた場所についてくいちがいがある(もつとも、最後の供述は「詳しくいえば云々」とあつて、前二者の供述では、漠然と梅原方店舗前道路といつたのをさらに正確に特定するために「いけす」の上といつたような供述であるが、当裁判所の検証調書に明らかなように「いけす」が置かれていたのは「梅原方店舗前」とはいえない場所である。)。このように供述がくいちがうに至つたのは、結局、同被告人の蹴つた場所について、あるいはさらに蹴つたか否かについての記憶が判然としていなかつたからではないかと思われるが、まず、取違が「いけす」の上に寝ていたときに蹴つた旨の供述について考えると、当裁判所の検証調書によれば、右の「いけす」は、木板で組み立てられた高さ約七〇糎、縦一米八〇糎、横一米五糎のものであるが、鑑定人友永得郎の鑑定書によると、そのような「いけす」の上に寝ている人間を被告人浜崎が足蹴することは、不可能ではないが、かなり無理な体位を取ることになり、その力はかなり弱くなるというのである。のみならず、当裁判所の証人取違サエ、同西本千代吉、同中村トミヨ、同大江ユキに対する各尋問調書、第四回公判調書中証人井手ミネの供述記載、第五回公判調書中証人井手国夫の供述記載及び梅原俊郎の検察官に対する供述調書によれば、取違が「いけす」の上に運ばれてからは、西本千代吉、中村トヨ、大江ユキらは取違の様子を目撃し、井手国夫、梅原俊郎らは取違の傍にいた、ことに取違方に連れていこうとしていたときには、取違サエ、井手ミネらも取違の傍にいたのであるから、被告人浜崎が取違を蹴つたとすると、そのうちの誰かはこれに気付いているはずである。にもかかわらず、前記証拠には同被告人が「いけす」の上の取違を蹴つた旨の供述は見当らず、かえつて、中村トヨ、西本千代吉は、同被告人は蹴つていないと述べている。これらの証拠と対比すると、同被告人の「いけす」の上の取違を蹴つた旨の供述は、事実に反するものといわなければならない。
次に、同被告人の梅原方店舗前道路で蹴つた旨の供述について考えると、前記のように、同被告人は、のちに検察官に対し、「いけす」の前で蹴つた旨右の供述と異なる供述をしているところからみると、右店舗前道路で蹴つた旨の供述は、同被告人の判然たる記憶に基いて述べられたものか否か疑がある。他方、当裁判所の証人岩永鉄之助、同中村トヨに対する各尋問調書及び第四回公判調書中証人井手ミネの供述記載によれば、中村トヨは、取違が梅原方店舗前道路に寝かされてから同人から眼を放さなかつたが、被告人浜崎は蹴つていないと述べ、また、岩永鉄之助も右取違を目撃していたが、同被告人が蹴つたことは知らないと述べ、さらに、井手ミネも、取違が右店舗前道路に寝かされていたのを目撃しているにもかかわらず、同被告人は蹴つていないと述べていることと対比すると、同被告人の梅原方店舗前道路で蹴つた旨の前記供述も信憑力に乏しい。もつとも、増田紀彦の検察官に対する供述調書によると、同人は右店舗前道路において、被告人布沢が足で取違の腹を数回蹴つた、被告人布沢の傍にいた被告人浜崎、同峰も蹴つたように思う、と述べているが、当裁判所の右増田に対する尋問調書によつて認められるごとく、同人の供述はあいまいであり、前記証拠並びに被告人峰の検察官に対する供述調書に照らし、到底これを信用することはできない。
二、当裁判所の証人福田土士市、同白井春一に対する各尋問調書、第二回公判調書中証人柴原締一の供述記載、同人の検察官に対する供述調書について。
右の各供述によると、本件事件当夜、被告人等が、梅原方からの帰宅の途中、福田土士市、白井春一、柴原締一らに出会つた際、被告人浜崎は、同人らに対し、取違に二階から落されたことや、取違が階段を転落したこと、取違の腹を蹴つたら血を吐いた等話していたことを認めることができる。が、同人らの供述は、被告人ら三名が話していたことを内容とするいわゆる伝聞供述であつて、どの程度正確に被告人浜崎の供述を伝えるものか疑問があるのみならず、同被告人は、取違が階段を落ちたのを目撃していないにもかかわらず、その事実をあたかも目撃したかのように話していること、その場には上田という巡査部長もいたのに、同被告人は、取違をやつつけたことをむしろ得意顔に話していたことが認められ、同被告人の供述も必ずしも事実を語つたとは断じ難い。
三、以上のほか、本件にあらわれた全証拠によると、被告人浜崎は、取違に二階から落されて極度に憤激しており、同人が梅原方店舗前に寝かされていたとき同人に対し盛に怒号していたこと、蹴ろうと思えば容易に蹴りうる場所にいたこと、現に棒で殴ろうとした事実があることが認められ、あるいは同被告人が、同人を蹴つたのは事実ではないかとの疑がある。しかし、前記一及び二の各証拠の信憑力が乏しい以上、この疑は所詮疑に止まり、まだ有罪判決の心証としての確信の程度に達することはできない。
以上の次第で、被告人浜崎に対しては犯罪の証明がなかつたことに帰するから、刑事訴訟法第三三六条にのつとり無罪の言渡をすべきものである。
よつて、主文のとおり判決する。
(裁判官 臼杵勉 関口文吉 江藤馨)